酒鬼薔薇聖斗様        


正しさ(権力)の見せしめとして
首を切り、頭部を人前にさらす処刑が
時代を経て
「大怨」の「ゲーム」として繰り返された

酒鬼薔薇氏は義務教育について書いておられたが
私は、生徒という立場から離れて長いので
今の教育の現場がどうなっているか知らないが
教育に偏差値とか内申点とかいう言葉が(まだ)あるらしい
教育の場で、ある得点より上が良くて、下が「ダメ」という評価(答え)
があるとすると
数学の答えとして間違いでしかない
ばらついて(分布して)「正規」な形を表すし
内々に「品行」を密告する制度あるとすると、教育は、時代さえ経てない
ことになる

  著名な数学者が、某大学の学長になられた時のテレビインタビューで
  「超一流の大学をつくりたい」と言っておられた
  知の先に、超えられる世界が見えているのかもしれないし
  人を超える人を教え育てられると思っておられるのかもしれない


読まれるとわかると思うが
私も「私の存在」にこだわっている
酒鬼薔薇氏と少し違うと思うのは
他人もそれぞれの「私」ではないかと(密かに)思っている

ただ
首を絞められる時の苦しさが、首を絞めている側に感じられなかったり
殺している時の安らぎが、殺される側に感じられないとしたら
たとえば
突然崩れ落ちた建物の下敷きになって、身動きできない、苦痛や、悲しさが
私の体の出来事として感じられないとしたら
私は私だし、他人は他人だ

 「選ばれた人」にしろ「透明な人」にしろ
 私たちは、
 それぞれ「交換できない」
 「個人」という
 「存在」なのではないか


* 1997.05.30 神戸・小6男児殺人事件 紙片の全文判明

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