たとえば私が言うとする 「昨日近所の海で泳ぎ、明日遠くの山に登る」 昨日の海も、明日の山も、今ここに無い 投げつけられた言葉が突き刺さったり 投げかけられた言葉を奥深く抱いたり 私たちの平凡な日常だ そしてここでの「平凡な日常」は言葉でできたつくり話だし こんな言葉の出来事も私たちの平凡な日常だ 時代の契機があるとして たとえば私たちが古代の出来事に立ち会うとする 未開の手探りの時代の中で 私たちの「時間や場所を飛び跳ねる日常」や、私たちの「自己矛盾」は 神を創らないだろうか 時代の契機があるとして たとえば私たちの神がもう一人の神に遭遇したとする 私たちの神は私たちの過去や未来、遙か遠くの彼方まで 覆い尽くす絶対でなければならない 私たちの神は、もう一人の神を許すだろうか 私は、私たちの神を創るだろうし しまい込んだ言葉の全てを賭けて 徹底した、戦いを挑むだろう 「今という」時代の契機があるとして 毛利さんや向井さんが丸い地球を見たという 爆発があり、膨張する宇宙があり、消滅があるかもしれない 私たちは神を創れるだろうか 私にとって「今という」時代の契機は 「私たちは、神を創れない」ことだし それぞれの場所での「絶対」や それぞれの場所での「全て」が 少しづつ(あるいは決定的に)創れないことにあると思う |